試しにアニソンを聞いてみる。

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アイカツ、「+1」、わかばちゃんの歌について

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(アイカツフレンズ!ミュージックビデオ『この世界はすばらしい』をお届け♪)

 

 このブログに訪れる人でアイカツの記事を読んでいる人がどれだけいるのか分かりませんが、今回は「+1」と称して、今まで総論的に扱って来た歌い手の話を各論的に分析して行こうかと思います。初回は恐らくどの記事でもこれまで扱ったことのないわかばちゃん。なお、「+1」シリーズが続くかどうかは未定です。

 わかばちゃんは、アイカツフレンズ2クール目に登場した、恐らく幼女先輩たちの分身としての役割を課されていると思われる主人公格キャラです。モブモブしい無属性な感じと、主人公格なかわいらしさを兼ね揃えていますが、幼女先輩の評価は如何に……?

 楽曲については初代アイカツ風味だなあぐらいのことを感じるぐらいで、相変わらず細かいことは分かりませんが、歌唱的には一見すると平凡に聞こえる歌の中で、高いレベルでポピュラーらしい器用さ、キャラソンとしてのキャラクター性と、(芸術作品とはちょっとベクトルが違いますが、)工芸作品としての美しさのバランスが保たれています。とりあえず歌唱面に関してはこれまでのアイカツの歴史を遡れば問題なく合格点でしょう。セリフがちょっと棒っぽいところも、演技の素人から見るといいアクセントに映ります。

 もうちょっと歌唱面について掘り下げると……この歌い手は非常にバランスが良いです。好ましい表現を使えば小気味良くまとまっています。どうバランスがいいかというと、発声や声質というハード的な部分と、それを表現に落とし込んでいく力というソフト的な部分の両者が、素晴らしすぎず駄目過ぎず、ちょうどよく同じくらいのレベルでまとまっていて、それらを合算すると比較的優れた歌い手となる、という塩梅です。

 勿論このハード的な力とソフト的な力は、それぞれが独立した存在ではないため、単純にこのような形で併記してしまうのはやや危険ではあります。例えていうならば、特定のハードの上でしか機能しないソフトというのはいくらでもあるもので、ハード(発声の力や声質)あってのソフト(表現力)であるわけです。だから歌というものは、体系的に学ぶ場合ある程度のレベルまではハード面での地力をまず上げることから始まります。

 とはいえ、わかばちゃんはそのハードのレベルが、それなりに高い水準に収まっていると言えると思います。歌唱技術の会得はある程度の段階まで進むと、今度は歌い手はありきたりな表現で言う「自分らしい表現」の習得に取り掛かることになります。それが上記のソフトパワーです。そうなって来るとソフトパワーとハードパワーの両者を同時進行的に磨いていくフェーズに入るのですね。そこから先は果てしなく長い道です。

 言ってみればわかばちゃんは、その果てしなく長い道のりの道中の、比較的最初らへんにいると言えると思います。世の中にはそもそもハードパワーが致命的に足りておらず歌い手として不十分だったり、十分なハードの力を持っているのにもかかわらずちゃんとしたソフトが備わっていなかったりする「劣化合唱部の人」みたいな無個性の人歌い手もいるなかで、この両者をバランスよく兼ね揃えている歌い手はわりかし希少です。聞いていると、ちゃんとポピュラーだ! なのに(?)綺麗! という、ポピュラーを聞くうえでの要点を押さえつつ拡張性のある歌が披露されていて、この歌い手の将来を思うとわくわくするような、そんな歌に仕上がっていると思います。

 伸びしろは十分にある上で、上手くなっていくための方向性も恐らくつかめていることと思うので、これから先、もっともっと上手くなって行ってほしいですね。将来はきっと、まるっと覚える以上のことが自在に出来るようになるでしょう。というわけで、初回はわかばちゃんについての記事でした。

 

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ボーカルの観点から見るラブライブという企画の特殊性について

 このブログでは今までさんざんラブライブについて勝手な議論をして来たわけですが、(その歴史については記事の最下段で一覧にしてまとめておくとして、)追加的に新しく記事を仕立てようと思ったのは新しいことを思いついたからです。

 (こういうことは余り声を大にしては言えないけれど、)世の中には本当にプロの技なのか? と疑いたくなるようなメジャー流通楽曲というのはあります。特にアニソンの場合その傾向は顕著だと言ってもいいです。最近私が嵌っているアイカツだって、この歌い手にこの作編曲はないやろって言いたくなるものは、フレンズになってから随分減ったとはいえ依然としてあります。

 現代的なミキシングの技術をもってすれば、CDにするということだけを念頭に置くなら歌い手の技量というのは半分ぐらいは窓から放り投げてもよいものです。そんな中、この歌い手の今の技量と個性でどの程度の規模感の風呂敷をどう畳んでやろうか、ということを考えるのが作編曲の作業、そしてそれを実務としてやっていくのがエンジニアの作業なわけですね。そして、この歌い手にはこの楽曲、この編曲はマッチしないだろうとか、あるいは筋が悪いだろうという組み合わせは確かに存在します。要するに、この歌い手にこの風呂敷はでかすぎる、あるいは小さすぎる、あるいは畳み方が不釣り合いだ、と言うようなことです。

 ここで筆者が言いたいのは、作編曲というのはいわば歌い手から始まって、音楽理論を歌い手ベースに落とし込んでいく作業だということです。まあクラシックや合唱など逆の楽曲が先に完成している場合もあるのかもしれませんが、ポピュラー音楽の場合大体はこの順番でしょう。そして、ここで冒頭のテーマに立ち返ります。何をもって作編曲を「プロの技」とするのか? ということです。

 

 結論から言うとそれは、作編曲の歌い手に対する特化具合ではありません。正確に言うなら、それも含まれますが、それだけではないのです。

 ここに二つのケースを考えてみます。

 一つ目は、ある楽曲がある歌い手の形に精密にフィットしていて、その歌い手でしか成立し得ないクオリティを誇っていた場合(簡単のため、個性的にというよりは単純に技術的に歌うことが難しいような楽曲が綺麗に歌として収まっている場合などもここに数えてしまいます)。

 そしてもう一つは、どんな歌い手に歌わせても比較的汎用的に高クオリティを発揮するであろう歌が任意の歌い手に与えられて、それなりのクオリティを実現している場合です。

 この二つのパターンに共通して言えるのが、作編曲の歌い手に対する汎用性という基軸で、出来上がった実物のクオリティという基軸を積分した面積(言い換えるなら、ある歌い手の場合この歌はどう仕上がるか、という「出来の良さ具合」を一人一人の場合について無限に積み重ねていった結果)の大小によって、作編曲のクオリティが定義され得ることです。

 先に言った一つ目のパターンですと、フィットする歌い手の幅は狭い代わりに、フィットした時のクオリティは高い。二つ目の場合ですと逆に、特定の歌手の場合のみにおいて発揮される瞬発力をとりあえずおいておいて、フィットする歌い手の幅を確保しているわけですね。そしてどちらの方針にしろ、この定義であらわされる面積の大きさがものをいうことは想像して頂ければわかるのではないかと思います。

 

 我々が聞く機会の多い、ソロで歌う音楽の場合、汎用性というよりはフィットする歌手に歌わせたときの最大値の方が重要でしょう。ようは、その歌手がそのミキシングで映える歌であれば、他の歌手で似たようなクオリティが出せなくてもなんら問題ないわけですね。

 さて、集団で歌う音楽などの場合は、ソロで歌う音楽の場合と違って、汎用的でどんな歌手が歌ってもそこそこの出来になる音楽を作る必要があることがあります。そうした音楽においては必ずしも瞬発力が重要視されているわけではなく、(少なくともポピュラーの場合には)安定感の方が期待されている場合が多い、ということです。

 集団に音楽を歌わせるのには二通りの考え方があります。一つは似たような個性を持つ歌い手を揃える(例えば合唱やクラシックで言えば全員にファルセットの歌を要求したり、よりポピュラーや民俗音楽に近いもので言えば究極的には兄弟姉妹や三つ子、四つ子を使ったりする)方法。そしてもう一つは、今回タイトルでも言及させていただいたラブライブのような、生まれ持ったものという意味でも、技術的な側面(レベル、ベクトルの両方)からも、ある程度別々の方向を向いている歌い手を集めて来て、誰が歌ってもまあこんな感じになるよね的な歌を用意する方法です。何が言いたいか。μ’sやaqoursに対して、歌手の個性というレベルに焦点を当てた楽曲をぶつける行為は、出来なくはないのかもしれないが形にするのが難しいしリスキーであり、それならば誰が歌ってもこうなるだろうなあという音楽を用意してやってキャラクターというフォーマットにまとめてやる方が音楽的にも商売的にも賢いやり方なのではないか、ということです。

 筆者がラブライブの音楽にプロの技を感じるか否かで言うならば、かなり大きな部分で感じます。はっきり言ってそのプロの技加減はアイカツの比ではないように感じられます。しかし、ここで言う「プロの技度合い」というのは、瞬発的な最大値ではなく、どんな歌い手がどのようにして歌ってもそれなりの形になるという安定感であり、それを保障しているのは結局歌い手に対する汎用性という基軸で、実物のクオリティという基軸を積分した面積の大きさなのです。これの実現はポピュラーミュージックの世界においては言葉で言うほど簡単なことではなく、よくある女子高生を正統進化させた歌い手を揃えて来ましたみたいな均一な歌を歌うアイドルアニメ、アイドルゲーム他アニメ系アイドル企画ものとは違うこうした評価軸でポピュラーを席巻したラブライブのやり方には確かに新規性があったのだと思います。

 さて、具体的な音楽理論について殆ど何も触れることなくここまで2千時余りを書き連ねてきたわけですが、実際の所音楽理論に関する知識の欠けている、ボーカリストとして、そして一人の聞き手の経験ベースで偉そうなことを語っている筆者には、理論に踏み出すという事はなかなか難しいのでした。とりあえずは、散々語りつくされているであろうラブライブの音楽の特殊性への言及を新しい角度から行い、もっと言えば誰かがどこかでこう言う記事をより具体化したものを生み出す切っ掛けとなることを祈って、ここに記事を書き起こしておきます。以上、非常に具体的事象を扱う割りに、何の具体的言及もない机上の空論のような記事でした。それではごきげんよう。

 

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